2012年9月19日水曜日

京都市長からの返答

8月末に、京都会館工事について、
京都市長宛にホームページから質問書を送りました。
同様の質問も多く送られたようで、
テンプレートのような返答ですが、
以下のような内容でした。



拝復
 この度は,京都会館の再整備についてご意見をいただきましてありがとうございます。お寄せいただきましたご意見に,お返事させていただきます。
 京都会館につきましては,昭和35年の開館以来多くの方々に愛されてまいりましたが,施設全体の老朽化やホール機能の前時代化など,施設利用者の皆様の今日的なニーズに応えられない状況が著しくなってまいりました。こうした事態を受け,平成14年度の耐震調査以降,10年間近くにわたり,様々な機会を通じて多くの市民の皆様にご意見をお伺いしながら専門家による検討を重ねてまいりました。
 昨年度には,「京都会館の建物価値継承に係る検討委員会を立ち上げ,京都会館の設計者である前川氏が設立した前川建築事務所や日本建築学会からの推薦を受けた委員等により建物価値を継承しながら使い続ける公共ホールのあり方について議論を行い,本年5月に基本設計を取りまとめました。京都会館を公共ホールとして安全にご利用いただくとともに機能再生を図るためには,本市として現時点で考え得る最適な再整備の計画であると考えております。
 京都会館への見学等の申込に関しましては,これまでから,可能な限り対応してまいりましたが,平成24年9月以降は,第一ホールの解体工事を実施しているため,安全上の問題等から見学をお断りさせていただいております
 イコモス20世紀遺産に関する国際学術委員会(ISC20C)からの意見書につきましては,この意見書を受け,本市から「ISC20C」委員長宛てに,京都会館再整備事業に係る本市の見解を平成24年9月7日に送付いたしました。本市の見解につきましては,京都市ホームページ「京都市情報館」の文化芸術企画課のページに掲載しております。
 京都会館の素晴らしい建物価値を最大限に引き継ぎ,全国からお越しになる方々の期待に応えられるように必要十分な機能充実を行うことにより,今後長期にわたり公共ホールとして使い続ける中で,新たな建物価値として評価されるよう,しっかりと取組を進めてまいります。 
 何卒ご理解いただきますようお願いいたします。
敬具 
平成24年9月19日
            京都市長 門川 大作


気になった点をいくつか。

①京都市の設置する検討委員会の報告書
これがどれぐらい今回の計画に反映されているか。

②検討委員会はいわば専門家の集まりであって、そこでの議論を市民に十分に報告したのか。
そして、直接の費用負担者である市民の合意を得たのか。
スケジュールを整理すれば、報告書が4月、計画が6月、工事落札が8月という早いペースですすんでいる。
この二ヶ月くらいのペースで、設計や工事の計画が十分できるものなのか?

③検討に関わったという日本建築学会や前川事務所のスタンス
モダニズム建築の保存は今後建築界の重要なタスクになるはず。
それを専門家としてどうとらえているのか。(イコモスの警告をどう受け取ったのか)

④工事計画が出てからの警告に対して、見直そうとした形跡が全く無い。

細部まで検討できませんが。

以上



2012年7月7日土曜日

倫理と感情

なぜ、こんなことになっているのか、
と、戸惑いを感じることがある。
自分の特性を分かるために、
自分が何について違和感を感じるのか、
明らかにすることは大切である。

考えたことは、
「倫理」と「感情」というもの。

私は常々、死刑制度には反対である。
ひとつは、人は善であると信じているから。
ひとつは、国家に人を殺す権利を与えたくはないから。
ひとつは、死刑では何も解決しないから。
という三つの理由によってである。

私は、教育学者であって、教育者である。
悪い子どもは、生まれてから死ぬまでずっと悪いままだ、
というのであれば、教育が有る意味がない。
人は生まれた時から悪であることはない。
環境と教育によって悪となるのである。

私は、日本国民である。
日本という国家が、人を殺していることは、
私が人殺しをしているのと同義である。
私はそんなことは許していない。
死刑判決を出した裁判官を、信任しない。

私は、研究者である。
社会課題の解決を一義的に考えないといけない。
犯された犯罪が、再発しないように、
より良き社会を作らねばならない。
死刑によって加害者を殺すことで、解決への手がかりを無くすことになる。

この三つの理由の根底には、
私の「倫理」がある。
思えば、私はこの「倫理」によって職業を選んでいる。
「倫理」に違うような仕事はしたくないのである。

この「倫理」を凌駕しているのが「感情」なのではないか。

人として守るべき道(倫理)は、実践されなければならない。
倫理は日々の生活の中で実践される。
今日買うもの、着る服、使う物、食べる物、
全て、人として守るべき道、に沿って行動しないと、
人間たりえないからである。
常に、模索しながら、見失わぬよう、考え続けないとならない。

人の生活が、倫理の体現でないといけない。

しかし、
人として守るべき道、は、自ら実践するものではなく、
感情を主張する手段となっているように思う。
「人道に反する」、「倫理的見地」から、などということは、
自らの行動に向けられるのではなく、
もっぱら他人の過失に向けられるようになっている。
人を批判するとき、その責を追求するときに、
倫理を理由にあげるのである。

そこでは感情が倫理を凌駕していて、
感情的に怒りたいが、まっとうな理由が無い時に、
倫理、人道を出してくるのである。

マスコミによって、
感情があおり立てられることも問題だが、
私は、この倫理を実践していない人が多いことが
そもそもの問題のように思えてならない。

倫理の実践には、人間性の発揮が必要である。
怠惰も含む人間らしさを、
受け止める環境に自らを置くこと。
それを努力として認めること。

今や、必死で甘えや弛みを作らないと、
人の道は歩けないのである。


2012年5月14日月曜日

リベラルとマフィア

リベラリストは嫌いである。
なぜならば、日本のリベラリストは
全て新自由主義的だからである。

君が代という歌がある。
あれは、ただの歌だ。
あの歌に意味を持たせたのは国家であり、
国家の支配のためにあの歌を使うのである。

自由主義を希求する自由民主党と民主党が、
全くの自由主義を恐れた結果、
愛国思想を利用しようとしている
それがあの歌の存在理由だ。

私はリベラリストとは、
米国型の自由主義を実現することに価値を置く人だと思う。
しかし、今リベラリストぶっている人たちは、
完全な自由主義に耐えきれ無いにも関わらず、
自由主義者かのように振る舞っているのである。

自由主義というのは、市場の原理で動くものである。
市場の原理とは、否応なくサービスを貨幣価値に変換する。
今のサービスはいくらか、というのを計り、
自由に個人の選択をあおぐ。
もちろん安くて良いサービスを選ぶのだ。

それをすると、何がおこるか、というと、
既得権益や、縁故などといった価値は相対的下位におかれ、
今まで取引をしていた企業、官公庁などとの繋がりが否定される。
ご縁で繋がった取引先、そんなのはどうでもいいのだ。
貨幣に換算できる価値を作り出さないものは意味がなく、
個人の選択は経済的な質に集約されていく。
個人の思いも全て経済的価値に変換されるのだ。

本来、小泉改革とは自由主義を追求し、
既得権益を排除すると公約したがために
多くの市民の賛同をえていた。
しかし、否応ない自由主義経済の導入を
内閣以上に大きな権力をもつ既得権益が邪魔したのである。

つまり、既得権益の排除が進んだのは、大きな権力を持たない、
個人の労働市場であった。
結果、非正規雇用の増加と、公務員の削減が進んだだけだった。
個別の権利を奪うのは、権力側には簡単なことで、
若者バッシング、公務員バッシングを上手く使ったのである。
しかし、本来自由主義の障壁になる
大きな既得権益には内閣や自民党など足下にも及ばなかった。
大企業や天下り企業などは何も変わらず、既得権益を温存しているのである。

これが残念ながら、
日本のリベラリズムの現実だ。

リベラリズムは大きな既得権益を前に敗北しているのだ。
惨敗。
それを棚にあげて、自由な経済活動を阻害するな、個人の責任だ、などどぬかすな。

真のリベラリストの闘う相手は既得権益だ。
原発利権、基地利権だ。

リベラリストを無力にしたのは、
歌である。
君が代という歌である。
リベラリストは自由主義を希求するので、
個人の利益を最大限に考え、バラバラになってしまう。

それを止めるために、出て来たのが、君が代という歌である。
いま、あなたがしんどいのは既得権益でなくて、敵国のせいだと、
敵は韓国だよ、在日朝鮮人は犯罪をするよ、
古い憲法を作った米国のせいで教育は腐敗してるよ、
北朝鮮はミサイルを打つよ、といって、
愛国を煽る。それに呼応するリベラリスト。
本来の敵は既得権益だろうが。

そんなのはリベラリストではなくて、
新自由主義者だ。
全て政府の言いなりになって、
弱いものイジメをしているだけの、
あくどいただの
マフィアだ。


2012年5月10日木曜日

平等ということ

平等という病にかかっている
そういう人がたくさんいる。

公平とか平等とか、一体なんなのだろう。
教育の平等もしくは平等に教育を受ける権利がある
といった時に「能力に応じて」という一節が入る。

この能力に応じて、の解釈が歪んでいる。
能力に応じてと言った場合、より能力の高いものを抽出して、
高度な教育を与えるというイメージを持つことが多い。
これは能力自体が「力」であるので、
強い、高い方が好ましい、という認識が支配的だからだろう。

しかし、この「能力に応じて」というのは、
厳密には「能力の『低い』者に応じて」ということなのだ。
能力の高いものにも低いものにも教育を保障しないといけないと
念押ししているのだ。

これと、平等の概念はどう両立するのだろうか。
能力の低いものに応じた教育は、
能力の高いものと同等の力をつけさせる教育なのだろうか。

平等がもし、皆に同じ能力を付けさせることを指すのであれば、
平等は実現されない。
元々能力は不平等だからだ。
高低のある能力を持つ人間に対して、
同じ能力をつけさそうとすれば、能力の低い者について、
より多くの資源(時間と支援)が必要になる。
能力が元々高いものは、資源がかからない。

かけられる資源に差が出れば、
不平等だということになるだろう。

平等を目指せば、
平等が実現され得ない。

教育に限らず、そういう側面はある。
社会的存在である限り、人間に平等な状態なぞないのだ。

さて。
能力に応じた教育の平等とは一体なんなのでしょうか。

皆さんは、能力に応じた教育を受けられましたか?
その結果、今「平等」ですか?


2012年4月14日土曜日

すぐれた人

優れた人をご存知か?

正確には、優れた人、と言った時に、
あなたは誰を思いうかべたか?

あなたが思い浮かべた人を、ちゃんと覚えておいて欲しい。
それは、あなたの思考全体に重要な役割を果たしているからだ。

私はよく
優れた学者は優れた人格を持っているか?
と、問う。

つまり、いわゆる「学力」と「人格」とは比例するか否かということだ。



大学院で研究指導をする教員の人格、
中卒から働いている左官の親方の人格、
これらには有意な差があるのか??


多分、比例しないと答える人が多いだろう。
優れた業績を残した学者の人柄が優れているとは限らないし、
優れた人格をもった人が、すぐれた学力を持つとは限らない。

「学力」を身につける場である「学校」で勉強することによって
人格は成長しないと答える人が多いという話である。
学校での学習によって人格は成長しないということで。
これは教育制度の根源的な問題に通じる。

そもそも日本の学校は
官僚を輩出するために制度化された旧帝国大学に
アカデミックな性格なぞないのにもかかわらず、
それらの大学がさも最高学府かのように扱われ、ヒエラーキカルな関係を築き、
官僚政治への信頼や人材の集中を効率的に行ってきたという経緯がある。
周知のように、その結果がこの日本の機能不全である。

これら日本的アカデミックなものの信頼は失墜している。

したがって、学力と人格は比例しないと答える人が多いのだろう。
しかし、ここでの学力は、アカデミカルなものではなく、
官僚支配を前提とした統治を成立させるための大学を頂点とした
学力なのである。

そこで、少し、考えた人は

学力とは学歴ではないし、
人格は優れているとかいないとか、評価されるものではないというだろう。

そうそう、

人格という言葉自体が問題なのだ。
人格はドイツ語ではPersonlichkeit これを日本語に訳せば「個性」になる。
人には格があり、それには高低が付けられるという考え方は
明治、日本の近代化に伴って発生してきた。
つまり強国をつくるための、効率的な教育と人材育成のための洗脳だ。

すぐれた「個性」という言葉には違和感があるだろうが、
そういう価値を認めることが大切だろう。
ありもしない、格のようなものを、人につけ、
人間には高低の差があるのだ、と、
それは、崇高なものだと考えさせるその思考こそ、
日本の格差を隠してきたからくりなのである。

れっきとした階級と格差が日本にはある。
それを見えにくくさせるのが、人格と、という概念なのだろう。

では他方の学力は、
というのは、また今度。

さて、あなたのすぐれた人はどんな人だろうか。


2012年4月7日土曜日

じかんどろぼう

ミヒャエルエンデの『モモ』をご存じだろうか。

私はあまり本を読むことを勧めないし、
むしろ読まない方がいい本が多すぎて本を読むなということもある。
本を読んでわかったような気になっている人が多いことが、
若い人たちをだめにしていると思っている。

実体験に基づかない本が多く、
空想の世界で社会をとらえて満足しているような、
そんな錯覚に襲われるような本もあるからだ。
エッセイなんかは自分の体験の解釈をしすぎていて嫌いだ。
対談なんかは手抜きとしか思えないものも多い。
優れた読み物は、実世界と哲学をつなげる強い力を持つものだ。

そういう意味で、エンデの『モモ』は優れている。

灰色の男が現れて、あなたに残された時間、
浪費している時間を告げる。
時間貯蓄銀行に時間をためようという。

人間は、時間をけちるようになる。
時間を節約するためのいろんなデマや闘争が起こる。
時間がないと焦れば焦るほど、自分の生活は崩れていく。
時間がある人、それは乞食のモモだった。
モモだけが自分の生活をしている。

モモを読んで、すべての問題を時間というもので理解することができた。

効率主義や、産業の発達もそう。
根本にあるのは、時間は短く済んだほうがいいでしょうという考え方。
それは結局人間の首もしめることになる。
時間に成果を求めること
時間に意味を求めること

人間は限られた時間しか持たない。
今の瞬間生が終わるかもしれない。
そもそも生に意味はないのだ。
時間に意味をもたせようとすればするほど、
時間を節約することが目的になって、
自分の生の意味がわからなくなる。

人間はもともと矛盾のある生き物だ。


時間を節約することにどれだけの意味を持たせるのか。
それによってその人の生活はガラっと変わる。

わたしは時間を浪費する。
毎日時間を浪費している。
これほどの贅沢はこの産業社会にはないのだ。

周りを見渡してみて、
いいなあとあなたが憧れる人はどういう人だろうか。
たぶん、時間を無意味に浪費しているように見える人ではないだろうか。



2012年4月1日日曜日

メゾメディア

マスメディアの責任だとか、
マスメディアの公害だとかが指摘されて久しい。

NHKは国営放送のように、
現政権の都合の良い情報しか流さないし、
民放は出資者の意向を重視した情報しか流さない。

マスメディアとはそういうもので、
それを鵜呑みにしてはいけないという問題意識から、
メディアリテラシーたる能力を身につけさせる必要があるだとか
学校でもそういう能力を重視しなさいと言われる。
それはごもっともなことである。

しかし、放射能をめぐる一連のやりとりで考えるところがある。

私の母親は、メディアリテラシーたる能力が低い人間だとつくづく思っていた。
なので、マスメディアの言いなりになって、食べて応援!などと
協力するのだろうなと思っていた。
しかし、事故後、初めて私と一緒に買い物に行った時に、
私が「原発を作ってる企業の物は買わない」とか、
「西日本のものの方が安全だから多少高くても買う」とか
いうのを徹底しているのを見て、
「ちかがそういっているから」と前置きながらも、
今では西日本の物を中心に買っているそうだ。

母親の様子を見て思った。
メディアというのはマスだけでは無いはずだ。
情報を入手する手段は、マスがあれば、メゾもミクロもあるだろう。
母親はこのミクロメディアとも思われる、
私からの情報を感情も伴いながら信用しているのだ。

このように、
マスメディアを批判的に見るということは、
それに代わる、メゾメディア、ミクロメディアからの情報が必要だ。
それらにアクセスし、情報収集し、判断することが必要なのではないか。
これが本来必要なメディアリテラシーであろう。

ただ、ミクロメディアは、家族や友人、教師など、
あらかじめ、人間関係ができていて、信用できる人がどうか、
すでに評価されている、という問題がある。
そのために、冷静に判断することができないかもしれない。
これは実名性の高いSNSであるフェイスブックに該当するだろう。

フェイスブックで知り合いがもたらした情報を、
その人との関係や、自分が知っている彼、彼女の
人間性を無視して評価することは難しいことだろう。
彼女の言っていることだから信用しよう、というものだ。

ツイッターの有用性はこういうところにある。
マスでもなく、ミクロでもない、
メゾメディアとしての役割だ。
緩やかに意見が流れるために、マスのように絶対的な力は無い。
ミクロメディアのように、個別の人間関係が成立していないために、
絶対的に信用することは無い。
つまり、小さな違和感から自分の意識が相対化され、自分を振り返ることができる。
かといって、メンションやリツイートによってゆるやかな人間関係もできあがる。
このような中間的(メゾ)メディアの在り方は今までになかっただろう。

そして、今日本において最も弱いのが、このメゾメディアだろう。
ドイツでは、社会教育関係施設の取り組みや、
職能団体などが、このメゾメディアの役割を果たしている。
それらを政治的感覚のよりどころとする市民が多い。

ツイッターがメゾメディアとしての力を発揮させようとする今、
さらに必要なのは、そこで得たものを
実際の政治的活動に移して行く、決め手だろうと思う。

ツイッターで情報飽和になりつつある人が、
実際の社会で何か手がかりを得れば、
爆発的に社会活動は増えると思う。

あとは、「決め手」さえあれば、という状態です。
「決め手」は、みなさんのそれぞれの中にあります。

2012年3月29日木曜日

死刑制度の何が問題か

相対的な議論はこの問題には適しませんので、
原理的な話しをしたい。

死刑制度は、法治国家として、
国家が人を殺す、というのを容認するものである。

国家に対して「死」をもって償うほど有害なこと、というのは、
国家の存続、平和、命を脅かすものだろう。
何をすれば死刑になるかというのは刑法に定めてある。

刑法の中には、人の命を奪う以外にも死刑が適用できる規定があるが、
実際は、人の命が奪われた場合にのみ死刑が適応されているそうだ。

なぜ「人の命が奪われた場合にのみ」死刑が適用されてきたのか。

これは、応報としての機能を死刑が担わされているからだろう。
応報とは、行いに応じてということ。
命を奪ったのだから命をもって償えと。
目には目を、歯には歯を、ということだろう。

目には目を、歯には歯を、という考え方は、
成熟した近代国家、福祉国家でどこまで通用するのだろうか。
つまり、その人の犯した罪に対して、
どこまでその人の責任を追及できるのだろうか?という疑問だ。
これは罪人だけではなく、
「人の行いはどこまでその人の責任にできるのか」という、
福祉国家における社会保障の考え方にも通底してくる。

入った企業がブラック企業だった。
過酷な労働を強いられてうつ病になった。
父親からDVを受け、トラウマで売春を繰り返す。
それは彼ら、彼女らの責任だろうか。

どこまでがその人の責任なのだろう。
私は、自分の人生の行い全てに、責任を終えるのだろうか。
何をもって責任をとるのだろうか、社会的地位、命、金、だろうか。
責任とは何だろうか。

他方で、多くの人の命を奪っていても、
大きな企業であったりすると、
誰も死刑にならず、賠償金ですませる場合もある。
経営者のとる責任は彼らの命でもって償われるものではない。

人間は社会的な存在である。
おぎゃーと生まれたその日から、誰かに面倒を見てもらい、社会で生きる。
おぎゃーと生まれたその日から、人を殺す人はいるだろうか。
人間は、社会との関係の中で「人を殺す人間」になってしまうのだ。
精神的な障害による殺人事件なども、障害が可視化できず
適切な処置が受けられないために「人を殺す人間」になってしまう。
そういう人間を作り出すのは、我々社会ではないのだろうか。

永山則夫から何を学んだのだろうか。

もう1つ恐ろしいことには
死刑を容認する社会は
死ぬに値する人間を作るということ。
命に値をつけるのだ。

では、あなたの命はおいくらほどだろう。
生きる価値のある人間なのか
社会は、生きる価値の高い人間によってのみ構成されうるのだろうか。

死刑を容認する人は、
無意識にも、命に価値付けをしている。
そういう意味で、そういう人こそ、社会に有害で、
死刑に値する人間なのではないだろうか。



2012年3月28日水曜日

りずむ。

わたくしは、職人の父と音楽教師の母を持っている。
小さなころから、本を読むよりも早く、
楽譜を読むことを教えられた。
家の本棚には楽譜が入っていた。

幼稚園はリズム教育に重点を置いている所に入り、
裸足に半そでに短パンで駆けずり回るような
五感を大切にする教育をうけていた。

それから、すっとピアノを弾いていたり、
中学校からギターを弾いてバンドをやっていたり、
今では、ブルースギターを弾いて歌ったりしている。

多くの人間関係を音楽で得ている。

それと関係あるのか知らないけれど、
私は、音楽との関わり方で、一定程度その人が理解できると思っている。

人間は、社会的な存在なので
置かれている環境に合わせて変化しないといけない。
変化する時の精神というのは、風にふかれるようにゆらっと揺れるもので、
ゆれながら、定位置を探す。
だから、心の不安定なとき、それは心が成長する一歩手前。
そして、
心の変化は一瞬にしてなされるのではなくて、
一定のグレーの時間を含むのだと思う。

心が変わる時の感覚は、音楽に身をまかすような感覚に似ている。
聞こえてくるものに対して、注意をむけると
自然と体がゆれる、ゆれている間にリズムに合わさってくる。

「音を聞いて、それに合わせないといけない」
というように、リズムをとる人がいるけれど、
意識的に情報を処理して、身体を動かしているのであって、
これはとてもストレスのかかること。
こういう人は心の成長に鈍感で、他者の心を感じるのも苦手になってくる。

音と身体をリンクさせるのが重要であって、
それが手であれ腰であれ、表打ちであれ裏打ちであれ、
なんであれリンクしていればいいのである。頭で考えてはいけない。
最近4つ打ちの音楽が流行るけれど、あれらのように
揺れることを許さない音楽が増えていることは、
心の揺れとその動きまでも自由にならないようになっているようで、
私としてはさみしいのである。

黒人音楽が好きという人は、
この揺れが好きなのだと思う。
黒人が歩くときのリズムは常に揺れている。
不条理な奴隷としての待遇をしなやかに受け流してきた、歩き方。
地面にかかとをつける。
アタックのあとに、振り子がふれるように、
バウンドしてけり出す。
振り子のように揺れながら、やりにくい状況の中でも
心のおさまる所をさがして
揺れながら進んでいく。

リズムと自分をリンクできる人は、しなやかに環境を受け入れながら
心も変化させることができる。
こういう人はどんどん強くなれるし人間的に魅力を増していく。
他方で、それを意識的にしかできない人もいる。
これは今の社会の根源的な問題にもつながっている。
詳しくはまた。

各人がどちらの人間なのか、
というのを、見極めることができる。
方法は秘密。

あなたはどちらでしょうか。

2012年3月25日日曜日

セレモニー

先週は修了式であった。
博士号もとらずに退学するので、なんとなく疎ましかったりする。

式というのは、なんとなく荘厳で改まった態度で挑まなければいけない、
ハレの日であるというのが習慣的に身についている。

たくさん袴を着た女性が歩いていたりする。
私は私服でも使うウールの着物に名古屋帯を締めた。
これはすごくカジュアルな着物。
しかし、卒業式に着物、いいじゃない、となる。
着物を着ているというのが重要なのである。

袴を着ている、
スーツを着ている、
花束をもらう、
偉い人が挨拶する、
それが重要なのである。

おめでとう、何が?
ありがとう、何が?
と考えてしまう。

もともと、セレモニーというのは、
何かに入信するだとか、
限られたコミュニティーに入るとか、
そういう時にひらかれるもの。

これからはみなさん大学の学生ですみたいなことかしら。
そもそも儀式であったもので、宗教的ではないけれど、
なんとなく形式的であったりするわけだ。

しかしまあ。この式典みたいなもの、
例えば成人式は、選挙管理委員会が「集い」たるものとして、
議員や市長選挙の宣伝に活用したり、
某自治体市長が、教育公務員に君が代を歌わせるなど
職務命令を守らせるために活用したりするわけだ。
「当人」を無視して。

主権者としての国民、
教育公務員としての教員、
学士としての学生。

こういったことを前提にお話をしているのか、
というと、そうではない場合が多い。
何も分かっていない「当人」を対象として、誰かの利害関係で、
おとしめたり、叱責したり、「激励」したりする。

そういったものに、式典はなっていて、小さなころから、私はこの種のものが苦手だった。

ただし、中には、感銘に富んだ挨拶をされる方もいる。
だから式も捨てたもんじゃない。
ただし、聞くべき内容のある話か無い話か、
その違いが分かる「当人」がいくらいるのかは別の話。

2012年3月24日土曜日

うつりゆく時間

青年期とは、児童期から成人期の移行期だと言われている。
それは特に、労働市場への参加をもって終了するとされている。
その特性ゆえに、社会的経済的政治的影響を受けやすいのだとされている。

現在の青年は、
労働市場への参加自体も困難であるし、
参加したところで、非正規雇用だったりして、
青年期の終わりは曖昧なものになっている。

自分はなんなのか、形にはまれない状態が長引くのである。

特に、労働社会の構成員として、流動的であることは、
経済的自立の問題とクロスオーバーしている。
収入も不安定だし、就労形態も不安定ということだ。

不安定なまま、不安定な社会を生きる、
そしてその時間が長引くというのが現代の青年期の特徴だ。

さらに気になるのは、
不安定よりは安定しているほうが良い。という感覚。
これは、どこから来ておるのだろうか。

安定した仕事、安定した生活なぞ、歴史の中でそうは無かったはずだ。
せいぜい戦後の急激な経済成長の中で醸成されたものに過ぎない。
不安定な生活を守るために社会保障があるべきなのだが、
社会保障も安定した生活を前提に作られてしまった。おかしい。

安定した生活を保証することによって、企業は労働者の権利を剥奪し、
搾取し、非人間的な労働秩序を労働者に受け入れさせて来た。
教育も、そういった人間を育てるためにシステム化されてきた。
安定した生活は、安定した収入だけを指すかのようだ。
良い教育とは、学校歴だけを指すかのようだ。

おかしい。
おかしいね。

安定を求める価値観こそが、
自分の闘っているものだと、
今、若者を搾取している官僚や大企業に作られてきたものだと、
気づくことが、現代の青年期の終わりになるのではないか。

つまり、不安定さを脱して成人期を迎えるのではなく、
不安定さを受け入れながら成人期を迎える。
青年期の終焉は、「安定を絶対視しない」
新たな労働観の獲得なのではないかと思うのである。

移行期としての青年期はこのように、
変質しているのではないか、
と思うのである。



2012年3月22日木曜日

限界を知る

何事にも限りはある。
あたりまえのことなのだけれど。

例えば、「無限の再生可能エネルギー」をうたって、高速増殖炉など作る。
ナトリウムを使ったもんじゅは、その危険性と我々の持っている技術からして
手におえない。
もしナトリウムが大量に漏れれば人間は生きてはいけない。
例えば、「無限の成長」をうたって、労働秩序を壊し続け、
官吏と癒着し、利益の追求に突き進む企業や経済団体。
就職してお金を稼ぐことに心まで支配されていく。
就活に失敗して自ら死んでしまう人もいる。

「無限」の概念と「生きること」の関係がとても気になる。

「無限」は、誰も経験したことがない。
なのに、なんで「無限」というのか。
「無限」は理論上でしか成り立たない。
なのに、なんで、実態社会に「無限」の概念を持ち込むのか。

自然科学が発達して、理屈上の「無限」が発見される。
社会生活の中では「無限」なぞ無いのに、そこに「無限」が持ち込まれる。
「無限」は社会認識を越えたものなので、特別な意味を持ったものに見られる。
「有限の可能性」よりも「無限の可能性」の方が、聞こえがいい、
社会科学での無限はそのレベルのものである。

教育にこれを持ちこんでみる。
「君には無限の可能性がある。」
「夢は無限大。」
「飛び立て無限の空に。」
こういったスローガンを、教室に飾ってみたりする。
とっても聞こえがいい。

聞こえがいい。それだけである。

無限なのは精神であって、資源は限られている。
限られている資源をいかに使うか、ということは議論されない。

原発にしてもそうだ。
資源は限られているのに、それをいかに使うか、ということよりも
「無限」という言葉が歩きだしたときの恍惚感。
それは素晴らしいことであって、それにかなうものは無いかのようだった。

仕事にしてもそうだ。
資源は限られている。
時間も限られている、お金も限られている、能力も限られている中で、
夢を考える。
夢は見るものではない。考えるきっかけになるもんだ。
「無限」とつけた時点で思考停止にいきつく。

命に限りがある我々は無限を求めてはいない。
可能性は限られたものである。
だからこそ精神世界で「無限」にあこがれる。
それと限られた現実とを混同してはいけない。

無限の能力なぞない。
それを直視させないために使う。「無限」ということば。
いかがお使いかしら。