2012年9月19日水曜日

京都市長からの返答

8月末に、京都会館工事について、
京都市長宛にホームページから質問書を送りました。
同様の質問も多く送られたようで、
テンプレートのような返答ですが、
以下のような内容でした。



拝復
 この度は,京都会館の再整備についてご意見をいただきましてありがとうございます。お寄せいただきましたご意見に,お返事させていただきます。
 京都会館につきましては,昭和35年の開館以来多くの方々に愛されてまいりましたが,施設全体の老朽化やホール機能の前時代化など,施設利用者の皆様の今日的なニーズに応えられない状況が著しくなってまいりました。こうした事態を受け,平成14年度の耐震調査以降,10年間近くにわたり,様々な機会を通じて多くの市民の皆様にご意見をお伺いしながら専門家による検討を重ねてまいりました。
 昨年度には,「京都会館の建物価値継承に係る検討委員会を立ち上げ,京都会館の設計者である前川氏が設立した前川建築事務所や日本建築学会からの推薦を受けた委員等により建物価値を継承しながら使い続ける公共ホールのあり方について議論を行い,本年5月に基本設計を取りまとめました。京都会館を公共ホールとして安全にご利用いただくとともに機能再生を図るためには,本市として現時点で考え得る最適な再整備の計画であると考えております。
 京都会館への見学等の申込に関しましては,これまでから,可能な限り対応してまいりましたが,平成24年9月以降は,第一ホールの解体工事を実施しているため,安全上の問題等から見学をお断りさせていただいております
 イコモス20世紀遺産に関する国際学術委員会(ISC20C)からの意見書につきましては,この意見書を受け,本市から「ISC20C」委員長宛てに,京都会館再整備事業に係る本市の見解を平成24年9月7日に送付いたしました。本市の見解につきましては,京都市ホームページ「京都市情報館」の文化芸術企画課のページに掲載しております。
 京都会館の素晴らしい建物価値を最大限に引き継ぎ,全国からお越しになる方々の期待に応えられるように必要十分な機能充実を行うことにより,今後長期にわたり公共ホールとして使い続ける中で,新たな建物価値として評価されるよう,しっかりと取組を進めてまいります。 
 何卒ご理解いただきますようお願いいたします。
敬具 
平成24年9月19日
            京都市長 門川 大作


気になった点をいくつか。

①京都市の設置する検討委員会の報告書
これがどれぐらい今回の計画に反映されているか。

②検討委員会はいわば専門家の集まりであって、そこでの議論を市民に十分に報告したのか。
そして、直接の費用負担者である市民の合意を得たのか。
スケジュールを整理すれば、報告書が4月、計画が6月、工事落札が8月という早いペースですすんでいる。
この二ヶ月くらいのペースで、設計や工事の計画が十分できるものなのか?

③検討に関わったという日本建築学会や前川事務所のスタンス
モダニズム建築の保存は今後建築界の重要なタスクになるはず。
それを専門家としてどうとらえているのか。(イコモスの警告をどう受け取ったのか)

④工事計画が出てからの警告に対して、見直そうとした形跡が全く無い。

細部まで検討できませんが。

以上



2012年7月7日土曜日

倫理と感情

なぜ、こんなことになっているのか、
と、戸惑いを感じることがある。
自分の特性を分かるために、
自分が何について違和感を感じるのか、
明らかにすることは大切である。

考えたことは、
「倫理」と「感情」というもの。

私は常々、死刑制度には反対である。
ひとつは、人は善であると信じているから。
ひとつは、国家に人を殺す権利を与えたくはないから。
ひとつは、死刑では何も解決しないから。
という三つの理由によってである。

私は、教育学者であって、教育者である。
悪い子どもは、生まれてから死ぬまでずっと悪いままだ、
というのであれば、教育が有る意味がない。
人は生まれた時から悪であることはない。
環境と教育によって悪となるのである。

私は、日本国民である。
日本という国家が、人を殺していることは、
私が人殺しをしているのと同義である。
私はそんなことは許していない。
死刑判決を出した裁判官を、信任しない。

私は、研究者である。
社会課題の解決を一義的に考えないといけない。
犯された犯罪が、再発しないように、
より良き社会を作らねばならない。
死刑によって加害者を殺すことで、解決への手がかりを無くすことになる。

この三つの理由の根底には、
私の「倫理」がある。
思えば、私はこの「倫理」によって職業を選んでいる。
「倫理」に違うような仕事はしたくないのである。

この「倫理」を凌駕しているのが「感情」なのではないか。

人として守るべき道(倫理)は、実践されなければならない。
倫理は日々の生活の中で実践される。
今日買うもの、着る服、使う物、食べる物、
全て、人として守るべき道、に沿って行動しないと、
人間たりえないからである。
常に、模索しながら、見失わぬよう、考え続けないとならない。

人の生活が、倫理の体現でないといけない。

しかし、
人として守るべき道、は、自ら実践するものではなく、
感情を主張する手段となっているように思う。
「人道に反する」、「倫理的見地」から、などということは、
自らの行動に向けられるのではなく、
もっぱら他人の過失に向けられるようになっている。
人を批判するとき、その責を追求するときに、
倫理を理由にあげるのである。

そこでは感情が倫理を凌駕していて、
感情的に怒りたいが、まっとうな理由が無い時に、
倫理、人道を出してくるのである。

マスコミによって、
感情があおり立てられることも問題だが、
私は、この倫理を実践していない人が多いことが
そもそもの問題のように思えてならない。

倫理の実践には、人間性の発揮が必要である。
怠惰も含む人間らしさを、
受け止める環境に自らを置くこと。
それを努力として認めること。

今や、必死で甘えや弛みを作らないと、
人の道は歩けないのである。


2012年5月14日月曜日

リベラルとマフィア

リベラリストは嫌いである。
なぜならば、日本のリベラリストは
全て新自由主義的だからである。

君が代という歌がある。
あれは、ただの歌だ。
あの歌に意味を持たせたのは国家であり、
国家の支配のためにあの歌を使うのである。

自由主義を希求する自由民主党と民主党が、
全くの自由主義を恐れた結果、
愛国思想を利用しようとしている
それがあの歌の存在理由だ。

私はリベラリストとは、
米国型の自由主義を実現することに価値を置く人だと思う。
しかし、今リベラリストぶっている人たちは、
完全な自由主義に耐えきれ無いにも関わらず、
自由主義者かのように振る舞っているのである。

自由主義というのは、市場の原理で動くものである。
市場の原理とは、否応なくサービスを貨幣価値に変換する。
今のサービスはいくらか、というのを計り、
自由に個人の選択をあおぐ。
もちろん安くて良いサービスを選ぶのだ。

それをすると、何がおこるか、というと、
既得権益や、縁故などといった価値は相対的下位におかれ、
今まで取引をしていた企業、官公庁などとの繋がりが否定される。
ご縁で繋がった取引先、そんなのはどうでもいいのだ。
貨幣に換算できる価値を作り出さないものは意味がなく、
個人の選択は経済的な質に集約されていく。
個人の思いも全て経済的価値に変換されるのだ。

本来、小泉改革とは自由主義を追求し、
既得権益を排除すると公約したがために
多くの市民の賛同をえていた。
しかし、否応ない自由主義経済の導入を
内閣以上に大きな権力をもつ既得権益が邪魔したのである。

つまり、既得権益の排除が進んだのは、大きな権力を持たない、
個人の労働市場であった。
結果、非正規雇用の増加と、公務員の削減が進んだだけだった。
個別の権利を奪うのは、権力側には簡単なことで、
若者バッシング、公務員バッシングを上手く使ったのである。
しかし、本来自由主義の障壁になる
大きな既得権益には内閣や自民党など足下にも及ばなかった。
大企業や天下り企業などは何も変わらず、既得権益を温存しているのである。

これが残念ながら、
日本のリベラリズムの現実だ。

リベラリズムは大きな既得権益を前に敗北しているのだ。
惨敗。
それを棚にあげて、自由な経済活動を阻害するな、個人の責任だ、などどぬかすな。

真のリベラリストの闘う相手は既得権益だ。
原発利権、基地利権だ。

リベラリストを無力にしたのは、
歌である。
君が代という歌である。
リベラリストは自由主義を希求するので、
個人の利益を最大限に考え、バラバラになってしまう。

それを止めるために、出て来たのが、君が代という歌である。
いま、あなたがしんどいのは既得権益でなくて、敵国のせいだと、
敵は韓国だよ、在日朝鮮人は犯罪をするよ、
古い憲法を作った米国のせいで教育は腐敗してるよ、
北朝鮮はミサイルを打つよ、といって、
愛国を煽る。それに呼応するリベラリスト。
本来の敵は既得権益だろうが。

そんなのはリベラリストではなくて、
新自由主義者だ。
全て政府の言いなりになって、
弱いものイジメをしているだけの、
あくどいただの
マフィアだ。


2012年5月10日木曜日

平等ということ

平等という病にかかっている
そういう人がたくさんいる。

公平とか平等とか、一体なんなのだろう。
教育の平等もしくは平等に教育を受ける権利がある
といった時に「能力に応じて」という一節が入る。

この能力に応じて、の解釈が歪んでいる。
能力に応じてと言った場合、より能力の高いものを抽出して、
高度な教育を与えるというイメージを持つことが多い。
これは能力自体が「力」であるので、
強い、高い方が好ましい、という認識が支配的だからだろう。

しかし、この「能力に応じて」というのは、
厳密には「能力の『低い』者に応じて」ということなのだ。
能力の高いものにも低いものにも教育を保障しないといけないと
念押ししているのだ。

これと、平等の概念はどう両立するのだろうか。
能力の低いものに応じた教育は、
能力の高いものと同等の力をつけさせる教育なのだろうか。

平等がもし、皆に同じ能力を付けさせることを指すのであれば、
平等は実現されない。
元々能力は不平等だからだ。
高低のある能力を持つ人間に対して、
同じ能力をつけさそうとすれば、能力の低い者について、
より多くの資源(時間と支援)が必要になる。
能力が元々高いものは、資源がかからない。

かけられる資源に差が出れば、
不平等だということになるだろう。

平等を目指せば、
平等が実現され得ない。

教育に限らず、そういう側面はある。
社会的存在である限り、人間に平等な状態なぞないのだ。

さて。
能力に応じた教育の平等とは一体なんなのでしょうか。

皆さんは、能力に応じた教育を受けられましたか?
その結果、今「平等」ですか?


2012年4月14日土曜日

すぐれた人

優れた人をご存知か?

正確には、優れた人、と言った時に、
あなたは誰を思いうかべたか?

あなたが思い浮かべた人を、ちゃんと覚えておいて欲しい。
それは、あなたの思考全体に重要な役割を果たしているからだ。

私はよく
優れた学者は優れた人格を持っているか?
と、問う。

つまり、いわゆる「学力」と「人格」とは比例するか否かということだ。



大学院で研究指導をする教員の人格、
中卒から働いている左官の親方の人格、
これらには有意な差があるのか??


多分、比例しないと答える人が多いだろう。
優れた業績を残した学者の人柄が優れているとは限らないし、
優れた人格をもった人が、すぐれた学力を持つとは限らない。

「学力」を身につける場である「学校」で勉強することによって
人格は成長しないと答える人が多いという話である。
学校での学習によって人格は成長しないということで。
これは教育制度の根源的な問題に通じる。

そもそも日本の学校は
官僚を輩出するために制度化された旧帝国大学に
アカデミックな性格なぞないのにもかかわらず、
それらの大学がさも最高学府かのように扱われ、ヒエラーキカルな関係を築き、
官僚政治への信頼や人材の集中を効率的に行ってきたという経緯がある。
周知のように、その結果がこの日本の機能不全である。

これら日本的アカデミックなものの信頼は失墜している。

したがって、学力と人格は比例しないと答える人が多いのだろう。
しかし、ここでの学力は、アカデミカルなものではなく、
官僚支配を前提とした統治を成立させるための大学を頂点とした
学力なのである。

そこで、少し、考えた人は

学力とは学歴ではないし、
人格は優れているとかいないとか、評価されるものではないというだろう。

そうそう、

人格という言葉自体が問題なのだ。
人格はドイツ語ではPersonlichkeit これを日本語に訳せば「個性」になる。
人には格があり、それには高低が付けられるという考え方は
明治、日本の近代化に伴って発生してきた。
つまり強国をつくるための、効率的な教育と人材育成のための洗脳だ。

すぐれた「個性」という言葉には違和感があるだろうが、
そういう価値を認めることが大切だろう。
ありもしない、格のようなものを、人につけ、
人間には高低の差があるのだ、と、
それは、崇高なものだと考えさせるその思考こそ、
日本の格差を隠してきたからくりなのである。

れっきとした階級と格差が日本にはある。
それを見えにくくさせるのが、人格と、という概念なのだろう。

では他方の学力は、
というのは、また今度。

さて、あなたのすぐれた人はどんな人だろうか。


2012年4月7日土曜日

じかんどろぼう

ミヒャエルエンデの『モモ』をご存じだろうか。

私はあまり本を読むことを勧めないし、
むしろ読まない方がいい本が多すぎて本を読むなということもある。
本を読んでわかったような気になっている人が多いことが、
若い人たちをだめにしていると思っている。

実体験に基づかない本が多く、
空想の世界で社会をとらえて満足しているような、
そんな錯覚に襲われるような本もあるからだ。
エッセイなんかは自分の体験の解釈をしすぎていて嫌いだ。
対談なんかは手抜きとしか思えないものも多い。
優れた読み物は、実世界と哲学をつなげる強い力を持つものだ。

そういう意味で、エンデの『モモ』は優れている。

灰色の男が現れて、あなたに残された時間、
浪費している時間を告げる。
時間貯蓄銀行に時間をためようという。

人間は、時間をけちるようになる。
時間を節約するためのいろんなデマや闘争が起こる。
時間がないと焦れば焦るほど、自分の生活は崩れていく。
時間がある人、それは乞食のモモだった。
モモだけが自分の生活をしている。

モモを読んで、すべての問題を時間というもので理解することができた。

効率主義や、産業の発達もそう。
根本にあるのは、時間は短く済んだほうがいいでしょうという考え方。
それは結局人間の首もしめることになる。
時間に成果を求めること
時間に意味を求めること

人間は限られた時間しか持たない。
今の瞬間生が終わるかもしれない。
そもそも生に意味はないのだ。
時間に意味をもたせようとすればするほど、
時間を節約することが目的になって、
自分の生の意味がわからなくなる。

人間はもともと矛盾のある生き物だ。


時間を節約することにどれだけの意味を持たせるのか。
それによってその人の生活はガラっと変わる。

わたしは時間を浪費する。
毎日時間を浪費している。
これほどの贅沢はこの産業社会にはないのだ。

周りを見渡してみて、
いいなあとあなたが憧れる人はどういう人だろうか。
たぶん、時間を無意味に浪費しているように見える人ではないだろうか。



2012年4月1日日曜日

メゾメディア

マスメディアの責任だとか、
マスメディアの公害だとかが指摘されて久しい。

NHKは国営放送のように、
現政権の都合の良い情報しか流さないし、
民放は出資者の意向を重視した情報しか流さない。

マスメディアとはそういうもので、
それを鵜呑みにしてはいけないという問題意識から、
メディアリテラシーたる能力を身につけさせる必要があるだとか
学校でもそういう能力を重視しなさいと言われる。
それはごもっともなことである。

しかし、放射能をめぐる一連のやりとりで考えるところがある。

私の母親は、メディアリテラシーたる能力が低い人間だとつくづく思っていた。
なので、マスメディアの言いなりになって、食べて応援!などと
協力するのだろうなと思っていた。
しかし、事故後、初めて私と一緒に買い物に行った時に、
私が「原発を作ってる企業の物は買わない」とか、
「西日本のものの方が安全だから多少高くても買う」とか
いうのを徹底しているのを見て、
「ちかがそういっているから」と前置きながらも、
今では西日本の物を中心に買っているそうだ。

母親の様子を見て思った。
メディアというのはマスだけでは無いはずだ。
情報を入手する手段は、マスがあれば、メゾもミクロもあるだろう。
母親はこのミクロメディアとも思われる、
私からの情報を感情も伴いながら信用しているのだ。

このように、
マスメディアを批判的に見るということは、
それに代わる、メゾメディア、ミクロメディアからの情報が必要だ。
それらにアクセスし、情報収集し、判断することが必要なのではないか。
これが本来必要なメディアリテラシーであろう。

ただ、ミクロメディアは、家族や友人、教師など、
あらかじめ、人間関係ができていて、信用できる人がどうか、
すでに評価されている、という問題がある。
そのために、冷静に判断することができないかもしれない。
これは実名性の高いSNSであるフェイスブックに該当するだろう。

フェイスブックで知り合いがもたらした情報を、
その人との関係や、自分が知っている彼、彼女の
人間性を無視して評価することは難しいことだろう。
彼女の言っていることだから信用しよう、というものだ。

ツイッターの有用性はこういうところにある。
マスでもなく、ミクロでもない、
メゾメディアとしての役割だ。
緩やかに意見が流れるために、マスのように絶対的な力は無い。
ミクロメディアのように、個別の人間関係が成立していないために、
絶対的に信用することは無い。
つまり、小さな違和感から自分の意識が相対化され、自分を振り返ることができる。
かといって、メンションやリツイートによってゆるやかな人間関係もできあがる。
このような中間的(メゾ)メディアの在り方は今までになかっただろう。

そして、今日本において最も弱いのが、このメゾメディアだろう。
ドイツでは、社会教育関係施設の取り組みや、
職能団体などが、このメゾメディアの役割を果たしている。
それらを政治的感覚のよりどころとする市民が多い。

ツイッターがメゾメディアとしての力を発揮させようとする今、
さらに必要なのは、そこで得たものを
実際の政治的活動に移して行く、決め手だろうと思う。

ツイッターで情報飽和になりつつある人が、
実際の社会で何か手がかりを得れば、
爆発的に社会活動は増えると思う。

あとは、「決め手」さえあれば、という状態です。
「決め手」は、みなさんのそれぞれの中にあります。