2012年3月22日木曜日

限界を知る

何事にも限りはある。
あたりまえのことなのだけれど。

例えば、「無限の再生可能エネルギー」をうたって、高速増殖炉など作る。
ナトリウムを使ったもんじゅは、その危険性と我々の持っている技術からして
手におえない。
もしナトリウムが大量に漏れれば人間は生きてはいけない。
例えば、「無限の成長」をうたって、労働秩序を壊し続け、
官吏と癒着し、利益の追求に突き進む企業や経済団体。
就職してお金を稼ぐことに心まで支配されていく。
就活に失敗して自ら死んでしまう人もいる。

「無限」の概念と「生きること」の関係がとても気になる。

「無限」は、誰も経験したことがない。
なのに、なんで「無限」というのか。
「無限」は理論上でしか成り立たない。
なのに、なんで、実態社会に「無限」の概念を持ち込むのか。

自然科学が発達して、理屈上の「無限」が発見される。
社会生活の中では「無限」なぞ無いのに、そこに「無限」が持ち込まれる。
「無限」は社会認識を越えたものなので、特別な意味を持ったものに見られる。
「有限の可能性」よりも「無限の可能性」の方が、聞こえがいい、
社会科学での無限はそのレベルのものである。

教育にこれを持ちこんでみる。
「君には無限の可能性がある。」
「夢は無限大。」
「飛び立て無限の空に。」
こういったスローガンを、教室に飾ってみたりする。
とっても聞こえがいい。

聞こえがいい。それだけである。

無限なのは精神であって、資源は限られている。
限られている資源をいかに使うか、ということは議論されない。

原発にしてもそうだ。
資源は限られているのに、それをいかに使うか、ということよりも
「無限」という言葉が歩きだしたときの恍惚感。
それは素晴らしいことであって、それにかなうものは無いかのようだった。

仕事にしてもそうだ。
資源は限られている。
時間も限られている、お金も限られている、能力も限られている中で、
夢を考える。
夢は見るものではない。考えるきっかけになるもんだ。
「無限」とつけた時点で思考停止にいきつく。

命に限りがある我々は無限を求めてはいない。
可能性は限られたものである。
だからこそ精神世界で「無限」にあこがれる。
それと限られた現実とを混同してはいけない。

無限の能力なぞない。
それを直視させないために使う。「無限」ということば。
いかがお使いかしら。