相対的な議論はこの問題には適しませんので、
原理的な話しをしたい。
死刑制度は、法治国家として、
国家が人を殺す、というのを容認するものである。
国家に対して「死」をもって償うほど有害なこと、というのは、
国家の存続、平和、命を脅かすものだろう。
何をすれば死刑になるかというのは刑法に定めてある。
刑法の中には、人の命を奪う以外にも死刑が適用できる規定があるが、
実際は、人の命が奪われた場合にのみ死刑が適応されているそうだ。
なぜ「人の命が奪われた場合にのみ」死刑が適用されてきたのか。
これは、応報としての機能を死刑が担わされているからだろう。
応報とは、行いに応じてということ。
命を奪ったのだから命をもって償えと。
目には目を、歯には歯を、ということだろう。
目には目を、歯には歯を、という考え方は、
成熟した近代国家、福祉国家でどこまで通用するのだろうか。
つまり、その人の犯した罪に対して、
どこまでその人の責任を追及できるのだろうか?という疑問だ。
これは罪人だけではなく、
「人の行いはどこまでその人の責任にできるのか」という、
福祉国家における社会保障の考え方にも通底してくる。
入った企業がブラック企業だった。
過酷な労働を強いられてうつ病になった。
父親からDVを受け、トラウマで売春を繰り返す。
それは彼ら、彼女らの責任だろうか。
どこまでがその人の責任なのだろう。
私は、自分の人生の行い全てに、責任を終えるのだろうか。
何をもって責任をとるのだろうか、社会的地位、命、金、だろうか。
責任とは何だろうか。
他方で、多くの人の命を奪っていても、
大きな企業であったりすると、
誰も死刑にならず、賠償金ですませる場合もある。
経営者のとる責任は彼らの命でもって償われるものではない。
人間は社会的な存在である。
おぎゃーと生まれたその日から、誰かに面倒を見てもらい、社会で生きる。
おぎゃーと生まれたその日から、人を殺す人はいるだろうか。
人間は、社会との関係の中で「人を殺す人間」になってしまうのだ。
精神的な障害による殺人事件なども、障害が可視化できず
適切な処置が受けられないために「人を殺す人間」になってしまう。
そういう人間を作り出すのは、我々社会ではないのだろうか。
永山則夫から何を学んだのだろうか。
もう1つ恐ろしいことには
死刑を容認する社会は
死ぬに値する人間を作るということ。
命に値をつけるのだ。
では、あなたの命はおいくらほどだろう。
生きる価値のある人間なのか
社会は、生きる価値の高い人間によってのみ構成されうるのだろうか。
死刑を容認する人は、
無意識にも、命に価値付けをしている。
そういう意味で、そういう人こそ、社会に有害で、
死刑に値する人間なのではないだろうか。