博士号もとらずに退学するので、なんとなく疎ましかったりする。
式というのは、なんとなく荘厳で改まった態度で挑まなければいけない、
ハレの日であるというのが習慣的に身についている。
たくさん袴を着た女性が歩いていたりする。
私は私服でも使うウールの着物に名古屋帯を締めた。
これはすごくカジュアルな着物。
しかし、卒業式に着物、いいじゃない、となる。
着物を着ているというのが重要なのである。
袴を着ている、
スーツを着ている、
花束をもらう、
偉い人が挨拶する、
それが重要なのである。
おめでとう、何が?
ありがとう、何が?
と考えてしまう。
おめでとう、何が?
ありがとう、何が?
と考えてしまう。
もともと、セレモニーというのは、
何かに入信するだとか、
限られたコミュニティーに入るとか、
そういう時にひらかれるもの。
これからはみなさん大学の学生ですみたいなことかしら。
そもそも儀式であったもので、宗教的ではないけれど、
なんとなく形式的であったりするわけだ。
しかしまあ。この式典みたいなもの、
例えば成人式は、選挙管理委員会が「集い」たるものとして、
議員や市長選挙の宣伝に活用したり、
某自治体市長が、教育公務員に君が代を歌わせるなど
職務命令を守らせるために活用したりするわけだ。
「当人」を無視して。
主権者としての国民、
教育公務員としての教員、
学士としての学生。
こういったことを前提にお話をしているのか、
というと、そうではない場合が多い。
何も分かっていない「当人」を対象として、誰かの利害関係で、
おとしめたり、叱責したり、「激励」したりする。
そういったものに、式典はなっていて、小さなころから、私はこの種のものが苦手だった。
ただし、中には、感銘に富んだ挨拶をされる方もいる。
だから式も捨てたもんじゃない。
ただし、聞くべき内容のある話か無い話か、
その違いが分かる「当人」がいくらいるのかは別の話。