2012年3月25日日曜日

セレモニー

先週は修了式であった。
博士号もとらずに退学するので、なんとなく疎ましかったりする。

式というのは、なんとなく荘厳で改まった態度で挑まなければいけない、
ハレの日であるというのが習慣的に身についている。

たくさん袴を着た女性が歩いていたりする。
私は私服でも使うウールの着物に名古屋帯を締めた。
これはすごくカジュアルな着物。
しかし、卒業式に着物、いいじゃない、となる。
着物を着ているというのが重要なのである。

袴を着ている、
スーツを着ている、
花束をもらう、
偉い人が挨拶する、
それが重要なのである。

おめでとう、何が?
ありがとう、何が?
と考えてしまう。

もともと、セレモニーというのは、
何かに入信するだとか、
限られたコミュニティーに入るとか、
そういう時にひらかれるもの。

これからはみなさん大学の学生ですみたいなことかしら。
そもそも儀式であったもので、宗教的ではないけれど、
なんとなく形式的であったりするわけだ。

しかしまあ。この式典みたいなもの、
例えば成人式は、選挙管理委員会が「集い」たるものとして、
議員や市長選挙の宣伝に活用したり、
某自治体市長が、教育公務員に君が代を歌わせるなど
職務命令を守らせるために活用したりするわけだ。
「当人」を無視して。

主権者としての国民、
教育公務員としての教員、
学士としての学生。

こういったことを前提にお話をしているのか、
というと、そうではない場合が多い。
何も分かっていない「当人」を対象として、誰かの利害関係で、
おとしめたり、叱責したり、「激励」したりする。

そういったものに、式典はなっていて、小さなころから、私はこの種のものが苦手だった。

ただし、中には、感銘に富んだ挨拶をされる方もいる。
だから式も捨てたもんじゃない。
ただし、聞くべき内容のある話か無い話か、
その違いが分かる「当人」がいくらいるのかは別の話。